一枚の夕焼け
私の視線は先程からカウンターの隅の席に釘付けだった。
一見ぬいぐるみのようで、そうでなはい。だってあれは動いている。
それに手に持ったグラスをちびちびと口に運ぶ様子は、おやじの飲みっぷりそのものだった。
何か変なのいる・・・
なるべく目を合わさないでいよう・・・・
そうは思うんだけど、ただでさえ狭い立ち飲み屋のカウンターには
私とその変なのとその飼い主らしい男の人しかいなかったので、やはりチラチラと目で追ってしまうのだった。
飲み始めるには少し早い時間だが、真っ直ぐ家に帰る気にもなれず、ふらっとこの飲み屋に寄った。
つい先程のことだ。街で偶然、昔の男を見かけてしまった。しかも彼は女連れ。
その女の人のお腹は丸く膨らんでいて、どうみても妊婦のそれだった。
幸せそうに手を繋いで歩く姿に遠目で気付き、思わず逃げ出した私。
もう忘れたと思っていた過去が蘇る。
あの人はもう新しい幸せの上を歩いているのに、私ときたら。
まだあの人との思い出に縛られて、未だに彼氏の一人も作る気になれないのだから、情けない。
はぁと溜息をつきながら2杯めのお酒をコップに注ぐと
同時にポロリと涙がこぼれてしまった。
あ、と思ったけど、まぁどうせ店内には飲み屋のオヤジと変なのと、その飼い主しかいない。
今はお酒を飲んでいるんだし、ちょうどいいかと
私はずずずーっと盛大に鼻をすすって涙を拭いた。すると
「…すまぬ」
は? 隣から聞こえた声にそちらを向くと、その変なのを連れた男の人が
何やらすまなそうに今度はハッキリと、怖がらせてすまぬ、と言った。
「あの・・・何が?」
「いや、これはエリザベスと言って俺の連れだ。害は無い。これで意外と可愛いのだが」
そう言いながらその変なのを撫でている。
どうやら私が泣いたのは、その変なの(エリザベスって名前?)が怖くて泣いたと思っているらしい。
子供じゃあるまいし、そんなもんで泣くか!と突っ込みたい気持ちは山々だけど。
初対面の人にそれはマズい。やっぱりこの人も変な人なんだと妙に納得する。
「いえ、そうじゃありません。思い出したんですよ、昔のこと」
そう言って、目を潤ませたまま笑顔を作ると、彼は
「そうか、それは失礼した。続きをどうぞ」
・ ・ ・ へ?
私にまた泣けと言いたいんだろうか、この人は。
そんな彼の台詞が可笑しくて、私は泣くどころかつい笑ってしまった。
なのに彼は真面目な顔で、私が笑うのを不思議そうに見つめる。
やっぱりなんか変だ、この人。でも面白い。
なんとなく彼のことが気に入ってしまい「ねぇお兄さん」と
チラと視線を流しながら、今度は私の方から話しかけてみた。
「辛い思い出に限って、忘れられないのはどうしてかしら?」
お兄さんは暫し無言でじっと前を見ていた。そして
「辛い経験は己を強くする。そしてそれを乗り越えた時には、良き思い出に形を変えるものだ」
と、返ってきた言葉は意外にもまともで、私は少し驚いた。
「・・・時間が解決するってことかしら?」
「時間は何も解決しない。解決するのは己自身だ」
「・・・・・。」
「・・・忘れられぬうちは、まだその時では無いということだろう」
「そんなものかしら」
「そんなものだ。 ・・・たぶん」
「たぶんって!」
「いらっしゃい!」
ちょうどそんなとき、男が三人店の中に入って来て、急に辺りが賑やかになった。
女一人でこれ以上飲んでいてもろくなことは無い。ちょうど気分も良くなったし。
私は台の上にお勘定を置くとそそくさと立ち上がり、彼の方に向いた。
「お兄さん、ありがとう。なんだか元気でたわ」
そう一言だけお礼を言って、私は頭を下げて店から出た。
数歩も歩くと後で「あ、そうだ」とお兄さんの声がして、ゆっくりと振り返ると
「お姉さん。お兄さんじゃない、桂だ」
のれんから顔を出した彼はとても優しい目でそう言った。
その後にいる変なの(エリザベスだっけ)は、どこから出したのか立て札を持っていて
それには大きく「がんばれよ」と書いてあった。
自分の顔が途端に緩んでいくのがわかる
「桂さん。お姉さんじゃありません。です」
と、私は満面の笑顔でそう返した。気分はすっかり晴れ晴れとしていた。
やわらかいオレンジ色の夕陽を背に、変な二人?はいつまでも私に手を振る。
やさしい風が彼の長い髪をふわりとなびかせて
それは何故かとても懐かしいもののように温かく
一枚の写真のように、私の頭の中にいつまでも残った。